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2011年3月27日日曜日

セルフイメージ、下から見るか?上から見るか?それとも?


アフリカのある村で一番足の遅い少年が、都会の学校に転校したらどうだろう?
今まで自分は足が遅いと思い込んでいた少年は、都会に来て周りから足が速いとヒーロー状態。

さて、彼自身はどこか変わったのでしょうか?

上記は先日読んだの一節。

彼自身は何も変わっていない、変わったのは彼の「環境」と「評価」。
ただ、それによって彼自身の『セルフイメージ』は180度変わったはず。

さて、この自分のセルフイメージを『誰』が決めるのかが今回のポイント。

僕らは比較の世界に生きていて、周囲の「評価」の中で常に生かされている。
そしてその「評価」が自分自身であると思い込んでいる事が多々ある。

「環境」次第で気まぐれに変わり続けるこの「評価」に対して、
いつまで依存し、翻弄され続けるのか?

何よりもこの世でたった一人の自分の価値を自分が認めてあげないで、
一番に愛してあげないで、誰が愛してくれるのか?

「人からの評価で作られた自分」を手放し、
僕は今この瞬間から「自分で自分として生きる」と決めた。

ここに宣言する。

「僕は感謝の表現者、伝達者として愛に従って生きる。」




以下、もしもこの決意が揺るいだ時の為の自分用にメモ。

僕は前職で期待に胡坐をかき、周囲の方々に本当に迷惑をかけ、
その場しのぎの嘘で逃げては自分を責めての繰り返しでもがき、苦しんでいた。
今思っても必要以上に自分で自分を苦しめ、
どこかに自分はダメだという妄想が常にある辛い日々。

その状態の僕に「自分で自分を定義しよう!」と語りかけても、
何も変われないし、むしろ余計にどうしていいかわからず辛くなるだけだっただろう。

縁あって今の仕事、環境に導かれ
現在運良くありがたいことに周囲の方々に幾ばくかの期待、
評価を頂きながら生きている。

この「期待」や「評価」というものはビックリする程、気持ちの良いもの。


期待に胡坐をかかないように、同じ過ちを繰り返さないようにと
一生懸命やっていた僕に気付くと前職では考えられなかった様な期待や評価を頂いていた。

これに気付くと、いつの間にか評価の為の最短距離の思考、行動に変わり、
もっと、もっとと評価の中毒症状になっていく。
評価を維持したい、もっと評価を貰いたい。
どれだけ評価をされても乾きは満たされない。

そして評価は当然相対的なものであるから、周りの人が気になって仕方がない。
どんどん本質を完全に外した行動、思考状態になっていく。
バランスを欠いてしまう。

そのことに気が付けたのは、
「評価」が本当に一瞬にしてオセロのように変わっていくことを目の当たりにした時。

自分の求めていたものの「危うさ」と「脆さ」。

自分の本当に大切なものをいつの間にか忘れて、
思い出せなくなって失くして、自分自身も何だかわからないままに
ただ惰性で周りからの影響のままに流され続ける恐怖。

そして何よりも
本当にありたい自分に自分を定義するという決意と喜びが湧き上がる。

この決意に至る為に僕は
評価で自分を苦しめ、それを乗り越えて得た評価で自分を失うという経験する。

低い評価の自分では、絶対に辿り着けない。
高い評価の自分で浮かれていると見失う。

もしかすると両方知って、環境の評価から受けるセルフイメージが
高い今だからこそ言えるのかもしれない。

なら手放すのは「今」しかない。

「今」だからこそ言える。

「低い評価による」セルフイメージに苦しみ、
「高い評価による」セルフイメージで踊らされること
虚しいこと何たるや。

今改めて自分に問う、
前と今とで僕自身は変わったのでしょうか?

根本的には同じ人間です。
しかし、生きる姿勢を変えました。

どんなことも自分の責任は自分が持つという覚悟です。
その覚悟を決めてしまえば本当に清々しいですよ。

おめでとう!大悟。
ありがとう!大悟。

さあ、感謝全開でいこうか☆

もし、読んで頂いた方の中に今の自分のセルフイメージを低く持って苦しんでる人がいたら
何かお役に立てるかもしれません。
お役に立てると幸甚です。

2 件のコメント:

ウラ さんのコメント...

素晴らしい☆そしてコメントできたよ(^^)/

ヒサタニトモ子 さんのコメント...

今の自分の問題にぴったりの言葉でした。
ありがとう!ダイゴはどんどん成長しているね。

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